二
淀の京橋口の柳はだらりと白っぽく萎なえている。気の狂ったような油蝉あぶらぜみが一匹、川を横ぎって町屋の中へ突き当ってゆく。その町も晩の灯の色はどこへか失って、灰を浴びたような板屋根が乾き上がっているのだった。橋の上下かみしもには、無数の石船がつながれていて、河の中も石、陸おかも石、どこを見まわしても石だらけなのである。
その石も皆、畳二枚以上の巨おおきなものが多かった。焼けきった石の上に、石曳いしひきの労働者たちは、無感覚に寝そべったり腰かけたり仰向けに転がったりしている。ちょうど今が、昼飯刻どきでその後の半刻休みを楽しんでいるのであろう。そこらに材木をおろしている牛車の牛も涎よだれをたらして、満身に蠅はえを集めてじっとしている。
伏見城の修築だった。
いつのまにか、世の人々に「大御所」と呼ばしめている家康がここに滞在しているからではない。城普請しろぶしんは、徳川の戦後政策の一つだった。
譜代大名ふだいだいみょうの心を弛緩しかんさせないために。――また、外様とざま大名の蓄力を経済的にそれへ消耗させてしまうために。
もう一つの理由は、一般民に、とにかく徳川政策を謳歌おうかさせるためには、土木の工を各地に起して、下層民へ金をこぼしてやるに限る。
今、城普請は全国的に着手されていた。その大規模なものだけでも、江戸城、名古屋城、駿府城、越後高田城、彦根城、亀山城、大津城――等々々。
この伏見城の土木へ日稼ひかせぎに来る労働者の数だけでも、千人に近かった。その多くは、新曲輪しんぐるわの石垣工事にかかっているのである。伏見町はそのせいで、急に、売女ばいたと馬蠅うまばえと物売りが殖ふえ、
「大御所様景気や」
と、徳川政策を謳歌した。
その上、
「もし戦争になれば」
と、町人たちは、機と利を察して、思惑に熱していた。社会事象のことごとくを、そろばん珠にのせて、
「儲もうけるのはここだ」
無言のうちに、商品は活溌にうごいた。その大部分が、軍需品であることはいうまでもない。
もう庶民の頭には、太閤時代の文化をなつかしむよりも、大御所政策の目さきのいい方へ心酔しかけていた。司権者は誰でもいいのである。自分たちの小さな慾望のうちで、生活の満足ができればそれで苦情がないのだ。
家康は、そういう愚民心理を、裏切らなかった。子どもへ菓子を撒まいてやるより易々いいたる問題であったろう。それも徳川家の金でするのではない。栄養過多な外様大名に課役させて、程よく、彼らの力をも減殺させながら効果を挙げてゆく。
そうした都市政策の一方、大御所政治は、農村に対しても、従来の放漫な切り取り徴発や、国持くにもちまかせを許さなかった。徳川式の封建政策をぽつぽつ布しきはじめていた。
それには、
(民をして政治を知らしむなかれ、政治にたよらせよ)
という主義から、
(百姓は、飢えぬほどにして、気ままもさせぬが、百姓への慈悲なり)
と、施政の方策をさずけて、徳川中心の永遠の計にかかっていた。
それはやがて、大名にも、町人にも、同じようにかかって来て、孫子の代まで、身うごきのならない手かせ足かせとなる封建統制の前提であったが、そういう百年先のことまでは、誰も考えなかった。いや、城普請しろぶしんの石揚げや石曳きに稼ぎに来ている労働者などは、明日あしたのことさえ、思っていないのである。

